【小説完全版】帰る場所~みなと釣り具店~ 〈第四章〉
- 2026.09.23
- むろんの小説「帰る場所」~みなと釣り具店~


第四話 タダ飯じゃねぇぞ
かしわにぎりを三つ食べ終えたあとも、タダシの腹の中には温かいものが残っていた。
腹がいっぱいになったからだろうか。
それとも、久しぶりに誰かから「食え」と言ってもらえたからだろうか。
自分でもよく分からなかった。
ただ——
なんだか今日は、このまま眠るのがもったいない気がした。
タダシは自分の服の袖をつまんだ。
「…………。」
三日間、ほとんど同じ服で過ごしている。
汗もかいた。
公園のベンチでも寝た。
恐る恐る、自分の服の匂いを嗅いでみる。
「…………臭っさ!!」
思わず顔を背けた。
「俺、こんな臭かったのかよ……。」
昼間、おっちゃんと結構近くで話していたことを思い出す。
「……何も言わなかったな。」
あの口の悪いおっちゃんなら、
『くせぇぞ、お前』
くらい言いそうなのに。
言わなかった。
それが逆に恥ずかしくなった。
「洗お。」
タダシは段ボール箱から着替えを取り出した。
*
町のコインランドリー。

ぐるぐると回る洗濯物を、タダシは椅子に座って眺めていた。
財布を開く。
金は減った。
洗濯代。
乾燥代。
本当は一円だって使いたくなかった。
けれど、不思議と今日は惜しいと思わなかった。
――明日、仕事探すんだしな。
せめて綺麗な格好をしていこう。
洗濯物が回るのを眺めながら、ふとさっきのかしわにぎりを思い出した。
「……うまかったな。」
もう一度食べたい。
そんなことを考えたら、また腹が減りそうになった。
「いや、三個食っただろ。」
自分に言い聞かせる。
洗濯が終わると、次にタダシが向かったのは銭湯だった。
*
「はぁぁぁぁ……。」
湯船に肩まで浸かる。
身体の奥から、勝手に声が出た。
「……幸せだぁ。」
天井を見上げる。
たった三日前までは、風呂に入ることなんて当たり前だった。
飯を食うことも。
布団で寝ることも。
洗濯された服を着ることも。
全部、普通だった。
でも今は。
温かい湯に浸かれるだけで、こんなに幸せだ。
「…………。」
タダシは両手で湯をすくい、顔を洗った。
明日はまた仕事を探そう。
今日ダメだったからって、明日もダメとは限らない。
なんとかなる。
いや。
なんとかする。
風呂から上がると、洗ったばかりの服に袖を通した。
石鹸の匂いがした。
「よし。」
久しぶりに少しだけ、自分がまともな人間に戻ったような気がした。
*
その夜。
タダシはいつもの公園へ戻った。
寝る場所は昨日と同じベンチ。
枕は段ボール箱。
何も変わっていない。
それでも不思議だった。
昨日より、ずっとよく眠れた。
腹がいっぱいだったからか。
身体が温まっていたからか。
それとも——
あのおっちゃんのせいか。
タダシは考える前に眠りに落ちた。
*

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翌朝。
「おい。」
「…………。」
「おい。」
「…………ん。」
誰かの声がする。
「起きろ。」
「んん……。」
「おい!!!」

タダシはゆっくり目を開けた。
目の前いっぱいに、
男の顔。
「…………。」
「…………。」
「うわぁぁっ!!」
タダシは勢いよく飛び起きた。
「びっくりした!!」
男は眉をひそめる。
「朝っぱらからうるせぇな。」
「おっちゃん!!」
タダシは胸を押さえた。

「頼むから、そーゆーのやめてくれよぉ!」
「なんだよ。」
「心臓に良くないぜー!」
「大げさな奴だな。」
「昨日も言っただろ!気配なく近づくなって!」
「知るか。」
「知っとけよ!」
男は相変わらずだった。
くたびれた帽子。
ぶっきらぼうな顔。
そして肩には、あの水色のタオル。
タダシはその姿を見て、少しだけ笑った。
昨日の夜以来だ。
「おっちゃん。」
「なんだ。」
「昨日の飯、ありがとう。」
男は答えない。
「かしわにぎり、めっちゃうまかった。」
「…………。」
「ほんと、ありがとう。」
タダシが頭を下げる。
すると男は、
「おい。」
「ん?」
「昨日の飯。」
「うん。」
男はタダシを指差した。

「タダで食えたと思うなよ?」
「…………え?」
タダシの顔が固まった。
「えっ!?」
昨日、あんなに感動して泣いたというのに。

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「かしわにぎりのことか!?」
「ほかに何がある。」
「いや、昨日ありがとうございましたって今——」
「飯食わせたんだから。」
男は言った。

「働け。」
「…………。」
タダシは目をぱちぱちさせた。
「……働く?」
「そうだ。」
「何を?」
男は答えなかった。
自転車にまたがった。
「ちょ、ちょっと待って。」
男がペダルを踏む。

「え!?どこ行くんだよ!」
そのまま走り出した。
「おい!!」
男が振り返る。
「何してんだ!」
「何って……。」
「来い!」
「どこに!?」
「いいから来い!」
タダシは慌てて段ボール箱を抱えた。
「待って!荷物!」
自転車はどんどん遠ざかっていく。
そして男が叫んだ。
「走れ!」
「はぁ!?」
タダシも走り出した。

段ボール箱を抱えたまま。
「ちょっ……待って!」
男は待たない。
「早いって!!」
「それでもついて来い!」
「自転車だろーが!!」
「男の意地だ!」
「またそれかよ!!」
タダシは必死に走った。
「待ってーっ!!」
公園を抜ける。
住宅街を抜ける。
角を曲がる。
男の自転車を見失わないように、タダシは走り続けた。
「おっちゃん!!」
「なんだ!」
「自転車でずるいってぇ!!」

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男は振り返らない。
けれど——
少しだけ笑っているように見えた。
「はぁ……はぁ……!」
タダシは知る由もなかった。
これから連れて行かれる場所が、
仕事場になり、
飯を食う場所になり、
眠る場所になり、
いつか自分が、
「うち」
と呼ぶようになる場所だということを。
しばらく走ると、古びた商店の並ぶ通りが見えてきた。
男が一軒の店の前で自転車を止める。
「はぁ……やっと……。」
息を切らしたタダシが顔を上げた。
古い看板があった。
そこには——
『みなと釣具店』
と書かれていた。
タダシは店を見る。

そして、男を見る。
「…………釣具屋?」
男は何も答えず、店の中から一本の釣竿を持ってきた。
ぽんっ。
タダシの胸に押しつける。
「……え?」
「昨日、飯食ったな。」
「食ったけど。」
男は海の方を指差した。
そして言った。

「今度は俺の晩飯、釣れ。」
「…………。」
タダシは釣竿を見る。
男を見る。
もう一度、釣竿を見る。
「……それが仕事?」

「そうだ。」
「…………。」
タダシの口元が、
少しずつ上がった。
釣りなら——
話は別だった。
――第四話 終
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