【小説完全版】帰る場所~みなと釣り具店~〈第三章〉

第三話 かしわにぎり

 

 

 

「腹、減ってるだろ。」

男はそれだけ言って、小さな袋をタダシに押しつけた。

「…………。」

タダシは袋と男の顔を交互に見た。

 

暗い公園。

 

もうとっくに人通りもなくなっている。

 

こんな時間に、この男はわざわざ戻ってきたのだろうか。

 

――俺のために?

「……これ。」

「いいから食え。」

 

袋を開くと、銀紙に包まれたおにぎりが三つ入っていた。

その横には、ちょっとした漬物まで添えられている。

銀紙を一つ開く。

 

ふわっと、甘辛い匂いがした。

 

「……かしわにぎり。」

 

炊き込みご飯に、鶏肉。

 

昔から知っている匂いだった。

男は少し離れたところに腰を下ろした。

「ほら。」

「…………。」

「食わねぇなら持って帰るぞ。」

「食う!」

思わず即答した。

男が鼻で笑った。

タダシはおにぎりを両手で持った。

「……いただきます。」

一口、かじった。

 

「…………。」

 

うまい。

 

鶏肉の旨みが染み込んだ米。

少し濃いめの甘辛い味。

 

三日間、まともなものをほとんど食べていなかった身体に、温かさが広がっていくようだった。

 

「……うめぇ。」

もう一口。

「うめぇ……。」

 

 

 

 

夢中になって食べた。

腹が減っていたから。

そのはずだった。

なのに。

 

ぽた。

 

銀紙の上に、何かが落ちた。

 

「……?」

ぽた。

もう一つ。

涙だった。

「…………。」

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タダシは慌てて腕で目元を拭った。

 

――なんでだよ。

 

別に悲しいわけじゃない。

泣くようなことじゃない。

飯をもらっただけだ。

 

 

 

そう思うのに、次から次へと涙が出てきた。

「……クソ。」

ぐすっ。

 

 

男が横から見る。

「おい。」

「なんだよ。」

「泣くな。」

「泣いてねぇよ。」

「泣いてるだろ。」

「これは……。」

言い訳を考えた。

何も浮かばない。

男が呆れたように言う。

 

 

「男の意地だ。」

「……は?」

「こういう時こそ泣くんじゃねぇ。」

「意味わかんねぇよ。」

そう言いながらも、涙は止まらなかった。

男は「ったく」と呟いた。

そして突然、タダシの顔に手を伸ばした。

「ちょっ……。」

ごしっ。

水色のタオルで、タダシの頬を乱暴に拭った。

「痛ぇよ!」

「うるせぇ。泣くからだ。」

「それ親父のタオルだろ!汚ねぇ!」

「洗ってるわ!」

「ほんとかよ!」

「食うのか食わねぇのか、どっちだ!」

「食うよ!」

タダシはまた、おにぎりをかじった。

男はそれ以上何も言わなかった。

 

     *

 

食べているうちに、懐かしい光景が浮かんできた。

施設の食堂。

朝になると漂ってくる味噌汁の匂い。

昼飯。

晩飯。

当たり前のように並んでいた、温かい料理。

厨房のおばちゃんたちは、いつも忙しそうだった。

大きな鍋をかき混ぜながら、

「タダシくん、ご飯これくらい?」

「もっと!」

「またぁ?ほんとよく食べるねぇ。」

「腹減るんだもん。」

「はいはい。」

大盛りにしてくれた。

別の日には、

「タダシくん、これ余ったから食べる?」

「食べる!」

「即答だねぇ。」

みんな笑っていた。

『いっぱい食べるんだよー。』

『はい!』

 

 

あの頃は、それが普通だった。

朝になれば朝飯がある。

昼になれば昼飯がある。

夜になれば晩飯がある。

腹が減ったと言えば、

「いっぱい食べなさい」

と言ってくれる人がいた。

 

 

 

そんなことを特別だと思ったことなんてなかった。

十八歳になって施設を出て。

三日間、公園で暮らして。

初めて分かった。

――毎日、飯が出てくるって。

すげぇことだったんだな。

そしてもう一つ。

自分の腹が減っていることを気にしてくれる人がいる。

それも、

当たり前じゃなかった。

 

タダシはおにぎりを食べながら、また鼻をすすった。

「……グスッ。」

男が横から睨む。

「また泣いてんじゃねぇか。」

「泣いてねぇ。」

「めんどくせぇ奴だな。」

「おっちゃんが持ってきたんだろ。」

「…………。」

タダシは銀紙に残った米粒まで拾って食べた。

「……うまかった。」

男は答えない。

「ありがとう。」

「…………。」

「おっちゃん。」

「なんだ。」

「これ、おっちゃんが作ったの?」

男の動きが、一瞬止まった。

「…………。」

タダシが顔を見る。

「なに?」

「……うるせぇ。」

「なんだよ、それ。」

男はそっぽを向いた。

タダシは知らなかった。

このかしわにぎりを作ったのは、男ではない。

この公園から少し歩いたところにある、小さな惣菜屋。

そこで働く、ミツ子という女だった。

男は夜になってから突然、そこへやってきた。

『おい、みっちゃん。』

『なんだい、こんな時間に。』

『……なんか食いもんねぇか。』

『あんた、晩ご飯食べてないの?』

『俺じゃねぇ。』

『じゃあ誰だい。』

『…………。』

『なんだい。』

『若い奴。』

『若い奴?』

『公園にいる。』

ミツ子は、男の顔をじっと見た。

そして、すぐに分かったような顔をした。

『……ああ。』

男が眉をひそめる。

『なんだよ。』

『あんた、やっぱり気にしてたんだねぇ。』

『うるせぇ。』

ミツ子は笑った。

『ちょっと待ってな。』

そう言って握ってくれたのが、

今タダシが食べている、三つのかしわにぎりだった。

けれど。

そんなことを、タダシはまだ知らない。

 

     *

 

三つ目のおにぎりまで、きれいになくなった。

「ごちそうさまでした。」

タダシは袋を丁寧に畳んだ。

腹がいっぱいだった。

たったそれだけのことが、信じられないくらい幸せだった。

男が立ち上がる。

「じゃあな。」

「え?」

「なんだ。」

「帰るの?」

「帰るに決まってんだろ。」

「…………。」

その言葉が、タダシの胸に少しだけ引っかかった。

――帰る。

この人には、帰る場所がある。

当たり前のことなのに。

今のタダシには、それが少し羨ましかった。

男が歩き出す。

「あ、おっちゃん!」

振り返る。

「明日も釣りすんの?」

「……さあな。」

「するなら、今日の場所の方がいいよ。」

「分かってる。」

「最初知らなかったじゃん。」

「うるせぇ!」

タダシが笑った。

男も背を向けたまま、片手を上げた。

その夜。

タダシは久しぶりに、腹いっぱいで眠れそうだった。

けれど男はまだ知らなかった。

明日になれば、この青年のことがまた気になってしまうことを。

そしてタダシも知らなかった。

今は羨ましいと思っただけの、

誰かの帰っていく場所。

その場所がもうすぐ、

自分にとっても、

 

 

「帰る場所」になることを。

 

 

――第三話 終

 

 

つづく…。

 

 

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