【小説完全版】帰る場所~みなと釣り具店~〈第二章〉

帰る場所

第二話 釣れる場所

 

朝の公園は静かだった。

 

聞こえるのは、木々の間を抜ける風の音と、時々遠くから聞こえてくる車の音。

 

そして、水面が揺れる小さな音。

 

タダシはベンチに座りながら、ぼんやりと池を眺めていた。

 

昨日見かけた、あのおっさんがいた。

 

日に焼けた顔。

くたびれた帽子。

肩に掛かった、水色のタオル。

今日も釣竿を持っている。

 

「……またいる。」

 

そう呟いてから、

――いや、俺もだけど。

と心の中で付け足した。

 

 

公園に三日も居座っている自分が言えたことではない。

 

男は池のほとりに腰を下ろすと、慣れた手つきで釣竿を伸ばした。

 

タダシは少し離れたベンチから、その様子を眺めていた。

 

釣りは好きだった。

 

施設にいた頃も、釣りに連れていってもらえる日は嬉しかった。

 

何時間、水面を眺めていても飽きなかった。

 

魚がどこにいるのか。

どんな場所を好むのか。

水の流れはどうなっているのか。

 

釣れない時間さえ、タダシには楽しかった。

 

だからこそ、気になった。

 

――そこじゃないんだけどな。

男が糸を垂らしている場所を見ながら思う。

 

しばらく待っても、浮きはぴくりとも動かない。

 

男が竿を上げる。

何もついていない。

 

「……チッ。」

 

もう一度投げる。

また待つ。

釣れない。

 

 

「…………。」

タダシはだんだん落ち着かなくなってきた。

――だから、そこじゃないって。

 

また男が竿を上げる。

やっぱり何もいない。

「クソッ。」

とうとうタダシは立ち上がった。

少し迷ってから、男の方へ歩いていく。

 

「おっちゃん。」

 

男が振り向く。

「……なんだ。」

 

「そこ、あんまり釣れないと思う。」

 

男の眉がぴくっと動いた。

 

「は?」

しまった。

言い方を間違えたかもしれない。

 

けれど、もう遅い。

 

タダシは池の少し先を指差した。

 

「あそこ。」

「…………。」

「たぶん、あっちの方が釣れる。」

男はタダシが指差した場所を見る。

それからタダシを見る。

 

「なんで分かる。」

「え?」

「魚がいるかどうか、なんで分かるんだ。」

タダシは水面を見る。

「木の影になってるし。」

 

指を動かす。

 

「あと、あっちの方が水の流れが緩いから。」

「…………。」

「魚、たぶんあの辺に集まってる。」

男は疑わしそうな顔をした。

「……本当かよ。」

「たぶん。」

「たぶんかよ。」

タダシは笑った。

「魚に聞いたわけじゃないから。」

男は鼻を鳴らした。

 

それでも、タダシが指差した場所へ仕掛けを投げた。

二人で水面を見る。

数秒。

何も起こらない。

男が横目でタダシを見る。

 

「おい。」

「待って。」

「釣れねぇじゃねぇか。」

「まだ十秒くらいだろ。」

 

その時だった。

浮きが、

ぴくっ。

沈んだ。

 

「……!」

男が勢いよく竿を上げた。

糸の先で魚が跳ねた。

 

「おっ!」

 

タダシも思わず身を乗り出す。

 

「ほら!」

 

男は魚を引き寄せると、途端に嬉しそうな顔になった。

 

「おお……!」

 

さっきまでの不機嫌そうな顔が嘘みたいだった。

 

タダシは吹き出した。

「めっちゃ嬉しそうじゃん。」

「うるせぇ。」

 

男は魚を外しながら、ちらりとタダシを見る。

そして言った。

「お前、やるじゃねぇか。」

 

その一言に、

タダシは少しだけ驚いた。

 

褒められるとは思っていなかったからだ。

「……まあね。」

少しだけ得意になって答える。

 

男が鼻で笑った。

 

「調子に乗んな。」

「褒めたのそっちじゃん。」

「褒めてねぇ。」

「今『やるじゃねぇか』って。」

「独り言だ。」

「無理あるって。」

男は面倒くさそうにタオルで首を拭った。

けれど、少し笑っていた。

それから男は、タダシの顔を見た。

「お前、釣り好きなのか。」

「うん。」

「昔から?」

「昔から好き。」

「へぇ。」

それだけだった。

どこの学校に行っていたとか。

親は何をしているとか。

そんなことは聞いてこなかった。

タダシにとって、それが少しだけ楽だった。

二人はしばらく並んで池を眺めた。

不思議な時間だった。

名前も知らない。

何をしている人なのかも知らない。

昨日までなら、すれ違っても何とも思わなかった相手だ。

なのに今は、同じ浮きを見ている。

やがて男が何気なく聞いた。

 

「お前。」

「ん?」

「ここで何してんだ。」

タダシの表情が止まった。

「…………。」

やっぱり、聞かれた。

男は池を見たままだった。

「昨日もいたろ。」

タダシは答えない。

「一昨日も。」

「…………。」

「ずっとあのベンチにいるじゃねぇか。」

タダシは少しだけ視線を落とした。

足元には、あの段ボール箱。

自分の荷物のほとんど全部が入っている。

「別に。」

「別にってなんだ。」

「なんもしてないよ。」

男がタダシを見る。

「…………。」

その目が嫌だった。

怒っているわけでもない。

疑っているわけでもない。

ただ、心配しているように見えた。

だから余計に嫌だった。

心配されると、弱い自分を見透かされたような気がした。

タダシは笑ってみせた。

「大丈夫だから。」

男は何も言わない。

「ほんと、なんでもない。」

「…………。」

「俺、大丈夫だから。」

少し強く言った。

男はしばらくタダシを見ていた。

それから、

「……そうか。」

それ以上、何も聞かなかった。

そのことにタダシはほっとした。

同時に、なぜか少しだけ寂しかった。

     *

その日の午後。

タダシはまた仕事を探しに町へ出た。

求人の貼り紙を見つけては店に入り、頭を下げた。

「働かせてもらえませんか。」

けれど。

「住所は?」

「今は……ないです。」

「電話番号は?」

「持ってません。」

相手の顔が曇る。

「あー……それじゃあ、ちょっと難しいな。」

「働けます。」

「いや、そういうことじゃなくてね。」

「なんでもやります。」

「ごめんね。」

店の扉が閉まった。

タダシはしばらく、その場に立っていた。

「…………。」

なんでもやる。

ちゃんと働く。

それなのに。

住む場所がないから仕事が決まらない。

仕事がないから住む場所が決まらない。

何から始めればいいのか、分からなくなってきた。

それでも、

「……大丈夫。」

自分に言い聞かせた。

大丈夫。

なんとかなる。

なんとかする。

そうやって生きてきた。

     *

夜。

公園へ戻ってきた。

タダシはベンチに腰を下ろすと、鞄から紙を取り出した。

履歴書だった。

街灯のわずかな明かりを頼りに、文字を書く。

住所を書く欄で、手が止まった。

「…………。」

書ける住所がない。

しばらく迷ってから、児童養護施設の住所を書いた。

もう、自分はそこに住んでいない。

分かっている。

それでも、ほかに書ける場所がなかった。

「……情けねぇな。」

小さく呟いた。

履歴書を伏せる。

段ボール箱を枕代わりにして、ベンチに横になった。

腹が減っていた。

昨日よりも。

今日よりも。

明日はもっと減るのだろうか。

――十二万。

まだある。

でも、使うのが怖い。

目を閉じる。

そのうち、疲れに負けて眠ってしまった。

     *

どれくらい経ったのだろう。

公園は真っ暗だった。

人影がひとつ、ベンチへ近づいてきた。

昼間の男だった。

水色のタオルを肩に掛けたまま、眠っているタダシを見る。

「…………。」

そのそばに落ちていた紙に気づいた。

拾い上げる。

履歴書。

男の目が、その住所で止まった。

児童養護施設。

「…………。」

男はもう一度、タダシを見た。

小さな段ボール箱。

薄汚れた服。

公園のベンチで丸くなって眠る、十八歳の青年。

昼間の言葉が蘇る。

『俺、大丈夫だから。』

男は眉間にしわを寄せた。

「……何が大丈夫だ。」

小さく呟く。

そして、眠っているタダシに背を向けた。

しばらくして。

男はもう一度、公園へ戻ってきた。

その手には、

小さな袋が握られていた。

中には、銀紙に包まれたおにぎりが三つ。

男はベンチの前に立った。

「おい。」

「…………。」

「おい。」

タダシがゆっくり目を開ける。

暗闇の中。

目の前に、人の顔。

「うわぁっ!!」

タダシが飛び起きた。

「な、なんだよ!!」

男は眉をひそめた。

「そんな驚くことか?」

「驚くって!!」

心臓を押さえながら、タダシは叫んだ。

「気配なく暗闇からそんな出てきたら、誰だってびっくりするって!」

「うるせぇな。」

男は持っていた袋をタダシの胸元へ押しつけた。

「ほら。」

「……なに?」

「食え。」

袋を開く。

銀紙に包まれたおにぎり。

タダシの目が止まった。

男はぶっきらぼうに言った。

 

「腹、減ってるだろ。」

 

タダシは何も言えなかった。

 

――第二話 終

2






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